中日文化の掛け橋−鑑真和上 情報更新は:2011年5月26日 ◆66歳の鑑真和上(紀元688〜763)は、754年(天平勝宝6年)、日本にようやく到着することができました。鑑真和上は、唐の「垂簾聴政」の武則天皇后時代の垂拱4年に江蘇省揚州に生まれました。和尚さんになる前の俗名は「淳於」と言われています。14歳で貧困な家庭から出家,18歳の時、道岸律師により菩薩戒を受け、21歳で長安の実際寺で具足戒を受けて正式に僧侶になり、鑑真和尚と名づけました。それから長安や洛陽の各寺院で勉強しながら勤めました。その時代は、大陸で盛んな仏教は、やっと日本と関係を繋ぎました。天平の昔、二人の日本留学僧栄叡、普照は揚州をたずね、鑑真のもとに来て、伏してお願いしました、「仏法は東流して、日本国に至りましたが、法はあっても真髄を伝える人がいません。どうか日本に渡り、教え導いてください」すると、鑑真は言いました、「昔、日本には、仏法の興隆につくした王子(聖徳太子)がおられたことを聞いています。日本こそ仏法の栄える国です。われらの中から誰か日本国に行って、法を伝える者はいないのか」弟子たちは黙したままです。鑑真は、「仏法のためだ。どうして身命を惜しむのか。誰も行くものがなければ、私が行こう」と言いました。こうして鑑真が日本への渡航を決意したのが、五十五歳の時でした。五度目の渡航に失敗し、海南島に漂着し、揚州に向かう途中、視力の衰えを感じ、胡人の医師から手術を受けるが失明したと、鑑真の「東征記」には伝えられています。
◆鑑真(紀元688〜763) 紀元754年(天平勝宝6年)66歳の鑑真和上は、日本にやっと着ました。鑑真和上は、唐の「垂簾聴政」の武則天皇后時代の垂拱4年に江蘇省揚州にうまれまいた。和尚さんになる前の俗名は「淳於」と言われます。14歳で貧困な家庭から出家,18歳の時、道岸律師により菩薩戒を受け、21歳で長安の実際寺で具足戒を受けて正式に僧侶になりました。鑑真和尚の名前を名つけました。それから長安や洛陽の各寺院で勉強しながら勤めました。その時代は、大陸で盛んでいる仏教は、やっと日本と関係が繋ぎました。天平の昔、二人の日本留学僧栄叡、普照は揚州をたずね、鑑真のもとに来て、伏してお願いしました、「仏法は東流して、日本国に至りましたが、法はあっても真髄を伝える人がいません。どうか日本に渡り、教え導いてください」すると、鑑真は言った、「昔、日本には、仏法の興隆につくした王子(聖徳太子)がおられたことを聞いています。日本こそ仏法の栄える国です。われらの中から誰か日本国に行って、法を伝える者はいないのか」弟子たちは黙したままです。鑑真は、「仏法のためだ。どうして身命を惜しむのか。誰も行くものがなければ、私が行こう」と言った。こうして鑑真が日本への渡航を決意したのが、五十五歳の時でした。五度目の渡航失敗し、海南島に漂着し、揚州に向かう途中、視力衰えを感じ、胡人の医師から手術を受けるが失明したと、鑑真の「東征記」は伝えました。(S.Nagahara)
正倉院蔵 奈良時代 天平勝宝6年(紀元754年)鑑真の真筆 ◆この書状は、同年3月18日、鑑真は良弁にあてて「華厳経」、「大涅槃経」、「大集経」と「大品経」の4部経典の借用を求めたもの。紙本墨書縦29.7cm横22.4cm この真筆は、鑑真和尚はその時、視力は残していることを証明できます。片目で細部の筆触はまだ見えると分析しています。(毎日新聞社2011年5月22日 富田淳より) ◆そして妨害、難破、漂流といった五度の挫折の末、ついに日本の土を踏むことができました。それは願を発してから、十一年がたった六十六歳の時(753年)のことです。鑑真は、僧としての守るべき戒律をさずける大使として日本に招かれました。鑑真その人も、悟りすました人ではありません。激しく怒り、悲しみ、時には熱い涙をながす情動の人でした。弟子たちがひそかに渡航準備をしていた時、霊祐という弟子が、師の健康を案じて密告したので官吏に知られ、計画は挫折。その時、鑑真はきびしく弟子を叱ります。霊祐は悔いてわびますが、鑑真は会おうとしません。夜の八時から朝の四時まで立ったまま、罪をわびること六十日にして、やっと許してもらえました。天の使命をはばむ者に対する激しい怒りです。また、愛弟子の祥彦が死を前にして、「和上はお目覚めだろうか。お別れをしたい」と言う。鑑真が香をたく中、祥彦は一声、仏を唱えて息絶えます。その時、鑑真は、「彦よ!彦よ!」と幾度も名をよびながら慟哭しました。労苦をともにし、生死をかけて誓いあった師弟の愛に心うたれます。鑑真が住んでいた奈良の唐招提寺には、当時の面影をのこす戒壇が今もある。僧としての名声を博した鑑真が、五十五歳にもなった身で言葉の通じない異国に行き、そこに骨を埋める決心をするというのは、よほどのことである。
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